カメラのスペックってのは、自分が感じたことを最大限表現するためにある。
と思った話。
この前、不定期で開催される夜のポタリングに行ってきた。
開催と言っても自分1人笑
ちなみにポタリングってのはサイクリングをよりゆるくした感じのやつのこと。
自転車でぶらぶらするやつ。
公園に向かう途中で登り始めの月を見た。
デカかった。
公園に着いて自転車で走ってると、立ち止まって月の写真を撮ってる人が何人かいた。
その全員と、ご飯でも行って話してみたいと思った笑
ぼくもスマホで月の写真を撮った。
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この日のポタリングを通して感じたことがある。
「カメラがあれば…」
例えば、こんな瞬間があった。
ズドーンと続いている一本道があって、その奥にドーンって存在感を放つ月。
その感動を写真にしたいと思った時、それを表現するなら、望遠レンズで一本道の圧縮効果を狙って月を大きく配置して撮る。
というのが頭に浮かんだ。
でもその時はカメラを持っておらず、スマホで撮るしかなかった。
スマホカメラのスペックでは上記の表現をするには少々役不足。
これがとてももどかしかった。
ぼくにとってカメラのスペックってのは、自分で感じたことを最大限引き出して表現するための手段でしかない。
そう気づいた。
逆に、いくら高スペックなカメラを持っていても、表現したいものが無いなら意味がない。
また、カメラに撮らされている表現も意味がない。
例えば、「川の流れをスローシャッターで撮る」みたいなとき。
テクニックとして「スローシャッターにすれば絹のような川の写真が撮れる」と知って、それを撮ってみて、「おぉ〜なんか良いねぇ〜」だと、カメラに撮らされている。
もちろん最初はそれでもいいと思う。その表現方法を会得するための練習としてね。
でもスペックの正しい使い方は、肉眼で川の流れを見た時に、そこに「悠久の流れ」みたいなものを感じて、それを表現するためにスローシャッターを使う。みたいな。
これは、自分が感じたことを引き出すためにカメラを使ってると言える。
7年も写真のプロの現場にいたのに、こういうことを初めて考えた。
思うに、ぼくはカメラや写真との正しい向き合い方をしてきてなかったんだと思う。
正しいってのは、自分にとっての正しいね。
技術やセンスに囚われて、その部分を伸ばさなきゃいけないと感じていた。
でもそこじゃなかった。
技術やセンスをいくら磨いても、それだけで撮った写真は薄いハリボテ。
自分が感じたこと、伝えたいことが本質としてまず先にあって、そこに技術やセンスを総動員するのが正しい。
ちょっとだけ補足しておくと…というかこの補足こそ声を大にして言いたいんだけど、
技術やセンスはあるに越したことはないけど、無くても全然いいと思う。
その人が感じた感動、それを残したい伝えたいと思って撮った写真。
その写真はかけがえのない、とても尊いものだと思う。
技術やセンスが無くてもとても良い写真だと思う。
“ただ撮ってるだけ”なんて他人が言う資格は無い。
技術やセンスはメインじゃなく、最後にほんの一振りするスパイスみたいなイメージ。
カメラのスペックも同じ。
自分が感じたこと、伝えたいことが本質としてまず先にあって、それを表現するためにそのスペックを使う。
さっきから言ってる「技術」の部分に近いけどね。
今回のぼくの月の例で言うと、スマホカメラのズーム機能や画質、高感度耐性など色々な部分で「伝えたいことを伝えられない不足感」を感じた。
だから「カメラがあればなぁ」と思った。
あまりにも伝えられないことが予測できたから、今回その一本道で月の写真は撮らなかった。
もしあの時スマホで撮っていたとして、その写真は客観的に見ると多分しょぼくて、なかなか伝わりにくいものになると思う。
けど、だからと言ってぼくの感動それ自体がしょぼい体験だったわけじゃない。
とても価値のあるものだと思う。
それはぼくの価値観そのもの。
だから撮ってもよかったなぁとちょっと思ったりもする笑
ここが難しいところ。
技術やセンス、スペックを駆使してかつ、その人の価値観が乗った写真もあれば、
技術やセンス、スペックを駆使してるけど、なんの価値観も乗っていない写真もある。
もしくは、それらを全く駆使していないけど、とにかく生身の感動をそのまま写してる写真もある。
だからこそ、パッと見だけで判断したくない。
そういうところもあって、ぼくは写真を観ながら対話がしたい。
とにかくその人の感動や伝えたいこと、つまり価値観が乗った写真を観ながら対話がしたい。
自分にとっての写真とは?に気づいてから、撮影という行為がとてもクリアにできている。
遠回りしたけど、最近、写真を撮るのがすごく楽しい。